バイブルメッセージ Bible Message

私たちは主の食卓によって一つとなる

2024年 10月 1日
  • 10月第一主日は世界聖餐日として礼拝をささげます。聖餐は主の食卓とも言いますが、なぜ主は、これを制定されたのでしょうか。
    私の記念として
    「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、言われました。『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事の、杯も同じようにして言われました。『この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい。』」(Ⅰコリント11・23~25)
    主イエスは、「私の記念としてこのように行いなさい……私の記念としてこれを行いなさい」と言われました。
    記念にしなさいとは、単に記憶しておくことではありません。記念するとは、その出来事が、改めて新鮮なものとしてよみがえってくること、思い起こすことです。
    9月29日、秋季召天者記念礼拝をささげました。召天者を記念するとは、召天者を覚え、主イエスが信仰の先達にどれほどの愛を注ぎ、救われ、共に歩んでくださったか、その偉大な愛の業とその愛に応答して歩まれた先達のキリスト・イエスへの信仰を思い起こすことです。
    ですから、「主イエスの記念として」主の食卓にあずかるということは、私たちを救うために、主が尊い血潮を流され、その御体が裂かれたこと、主が成してくださった御業を思い起こすためなのです。
    主の臨在に招かれるため
    そして、私たちが主の食卓にあずかるのは、主イエスの臨在に招かれるためです。
    主イエスは、御言葉を通して、祈りを通して、私たちと交わってくださいます。また、教会の頭はキリストですから、私たちが主にあって互いに交わりを持つとき、主はそこにおられます。
    主の名によって、二人、または三人が私の名によって集まるところに、私もいると主イエスが言われた通りです。
    私たちが主の食卓にあずかる時、聖霊様を通して、主は親しく御臨在くださるのです。だから、私たちは主の食卓に招かれ、主の食卓にあずかるのです。これが第二の理由です。約束を信じて、主の死を告げ知らせる
    そして、私たちが主の食卓にあずかるのは、主の約束を信じる。「だから、……主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(26節)
    先ほど「私の記念として」主の食卓にあずかることを学びましたが、私たちは、主の十字架の死を記念し、思い起こすと共に、「主の死」を告げ知らせるために主の食卓にあずかるのです。
    もちろん、いくら「主の死」を告げ知らせても、主の復活がなかったならば、何の希望もありません。しかし、主の十字架の死がなければ、私たちの罪の贖いはないのです。
    十字架なくして、罪と死に打ち勝つことはできない。ノークロス、ノークラウン。主は確かに十字架で死んで、三日目に死者の中から復活されました。
    私たちは、主の御再臨の日まで、主の食卓にあずかるとき、主の死、主の十字架の死が、確かに私を救ってくださったと、そのことを告げ知らせるのです。
    罪の中にあった自分、私の死を告げる
    そして、主の死を告げ知らせるとき、それは、罪の中にあった古い私、自分が死んで、新しく生まれ変わった自分のことを告げ知らせているのです。
    古い私、自分勝手で自己中心な自分です。相手の立場に立てない自分です。
    パウロが別の手紙の中で(ガラテヤ2章19節途中から20節前半)「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」と告白しています。
    私たちが「主の死」を告げ知らせるとき、罪の奴隷として生きていた古い私の死を告げているのです。
    主の食卓で、主の死と共に、古い私の死が告げ知らされるとき、そのお互い同士はキリストにあって一つとされ、互いに愛し合い、赦し合うことができるのです。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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