バイブルメッセージ Bible Message

戸をたたき続けてくださる主

2016年 11月 17日

(ヨハネ黙示録3・20)

 

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。……」

 

主イエス様は、わたしたちが心の扉を開くのを待たれ、その扉をたたいておられるのです。「見よ」と始まっていますが、それは、「ほら、わたしはここにいるよと気づいて欲しい。そのような意味を含んだ「見よ」です。しばらくたたいて応答がないと諦めてしまうのではなく、またそこを離れることでもありません。主イエス様は、わたしたちの傍らにあって、激しくではなく、優しく、しかし、その戸が開かれるまでたたき続けてくださるのです。

 

10月9日に洗礼の恵みにあずかられた福島希世子姉と、初めて洗礼準備会を持ったのは、昨年のクリスマス前のことでした。しかし、希世子姉の状況から、翌年7月まで準備会は延期になりました。洗礼式を前にした姉妹のお証しで分かったのですが、7月の時点でも、「できることならば、山崎先生があの約束を忘れていてほしい」と思っていたようです。わたしは決して忘れませんが、何よりも主イエス様は、ずっと希世子姉の傍らにいて、心の扉をたたき続けてくださっていました。

 

ジョン・ウェスレーは、わたしたちが救われる道筋のすべての段階において神の恵みが先行していると述べております。十字架で尊い血潮を流され、わたしたちの罪を贖ってくださった主イエス様は、わたしたちが罪に気づくときも、悔い改めるときも、心にイエス様をお迎えするまで、ずっと心の扉を叩き続けてくださっています。つまり、イエス様を通しての恵みが常に働いているのです。黙示録3章20節の箇所を描いた絵画がありますが、イエス様がたたいているドアには、ドアノブがありません。叩き続けてくださるイエス様の声に気づき、戸を開くのは、わたしたちです。希世子姉はもうこれ以上は逃げられないとか、家族もみんなクリスチャンだから仕方ないとか、そのような思いではなく、イエス様を心にお迎えする必要があることが示され、心の扉を開きました。

 

人は、誰でも触れてほしくないこと、自分の心に閉まっておきたいこと、心の闇を抱えているものです。それは、罪悪感だったり、劣等感だったり、過去の傷、痛みだったりさまざまです。それらは、わたしたちを苦しめるのですが、それでも隠しておきたい。あるいは、気づかれないように閉まっておこうとするところがあります。

 

しかし、そのようなわたしたちを自由にし、全き愛と平安で満たしてくださる方が主イエス様です。主イエス様は、見よ、わたしはここにいる。わたしの声を聞いて、あなたの心の扉を開いて欲しい。そして、わたしを中に入れて欲しい。そうすれば、あなたがこれまで経験したことのない安らぎ、喜びを、本当の自由を与えることができる。と待っておられるのです。

 

「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をする。」

 

イエス様が、共に食事をされるとは、どういうことでしょうか。この食事は、じっくりと時間をかけてゆっくり味わうディナーです。それは主イエス様との深い愛の交わりです。

 

最初、イエス様は「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、」と言っています。これは、中に迎えた人が、ホスト役になって、イエス様をもてなしているのです。その後、イエス様は「彼もまたわたしと共に食事をする」と言われました。今度は、中に入られたイエス様が食事をもてなすのです。ここで、主人が入れ替わるのです。イエス様を心にお迎えしたら、今度は、イエス様に心の王座に座っていただき、これからの歩みを導いていただくのです。今でも自分で握り占めているものがないでしょうか。それを手放し、お委ねしていくならば、主は更にわたしたちの心の隅々までを主の愛と平安と喜びで満たし続けてくださるのです。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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