バイブルメッセージ Bible Message

主は私の羊飼い(詩編23編)

2020年 9月 24日

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」(詩編23・1)

 

なぜ、ダビデは、主が私の羊飼いならば、乏しいことがないと断言できるのでしょうか?

 

みどりの野に伏させてくださる方に

 

それは羊飼いなる主イエスが、わたしたちを緑の野に伏させてくださる方だからです。ダビデも羊飼いでしたから、羊の気持ちがよく分かります。羊が緑の野で伏しているとき、どんな状態にあるのでしょうか。まず、心配なことが一切ありません。そして他の羊との間に摩擦、衝突がありません。隣の羊に牧草を奪われることを心配していませんし、側にいる羊の存在にいら立ちを覚えることもありません。また寄生虫に悩まされることがないのです。そして、羊は満腹です。

 

ダビデが「主は私を緑の野に伏させ」と告白したとき、彼の心は、敵に攻撃されるという不安や恐れもなく、人間関係の摩擦という苦しみもなく、寄生虫のように知らない内に忍び込んでくる誘惑からも守られ、主によって満ち足りている状態にあったのです。

 

ダビデにとって「緑の野に伏す」とは、主の語りかけを聞き、主の御言葉を魂の食物として受け取り食べることでした。主は私を緑の野という御言葉の畑に伏させてくださる方、だから私は乏しいことがないと告白しているのです。

 

主は……憩いの汀に伴われ

 

「憩いの汀に伴われ」とあります。汀とは、川べり、水際です。そこは、羊が誤って流されることなく安心して水を飲むことができる場所です。しかも羊飼いは遠くで見ているのではなく、安全な水際に導き、なお一緒にいるので、羊は安心して水を飲むことができます。そのように、羊飼いなる主は、ダビデから離れず寄り添われ、生ける水、命の水である聖霊様で彼を満たし、彼の心の渇きを常に癒してくださいました。

 

主は……魂を生き返らせ、正しい道へと導かれる

 

ですから、「主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる」のです。(詩編23・3)わたしたちの魂を枯渇させる原因は何でしょうか。第一にそれは、神の生ける御言葉と触れ合う時間の欠如です。もう一つの原因は、隠された罪です。解決されていない罪は、心の闇となり、主との交わりの妨げとなります。また自分の置かれている現状に不満を抱き、また他人に対して批判的になると魂が渇いていきます。何よりも、主イエスのことへの関心が薄れていき、主を証ししなくなると魂は渇いていきます。

 

けれども、主は私の羊飼いです。私の羊飼いなる主イエスは、百匹の羊の内の一匹を見失うならば、見つけるまで探し回るお方です。そして、見つけ出すと喜んでくださり、もう一度正しい道へと導いてくださるのです。

 

「正しい道」とは、文字通りには、不正、間違いのない道です。けれども、わたしたちは間違うことがあります。また、自分の周りにいる人の間違い、不正に巻き込まれ、苦しみ、痛むこともあります。しかし、わたしたちの間違い、不正のすべてを担い十字架で贖ってくださった主が羊飼いですから、その主がわたしたちを正しい道へ導いてくださいます。

 

コロナ禍の中、世界中の人が苦悩と痛みの中にありますが、今アメリカでは、再び人種差別問題が表面化し、対立が激化しています。Black lives matter. 黒人の命は尊い。この言葉が繰り返し語られています。アメリカに限らずわたしたちの身近にも差別はあります。コロナ感染者に対する差別の起こっている社会の中にあります。

 

羊飼いなる主が導かれる正しい道は、差別の道でも、裁く道でもなく、愛と赦しの道、和解の道です。主は私の羊飼いです。主イエスが私のものならば、乏しいことはありません。なぜならば、主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われ、魂を生き返らせ、御名にふさわしく、すなわち、御心にかなった形で、正しい道へと導かれます。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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