No.0199
毎週/更新

「すべてを越えて、イエス様にすがる心」

聖書には、いろいろな人物が登場しています。そのほとんどは、優秀で立派な人というよりも、どちらかといえば弱い、平凡な、ごく普通の人々です。そこに聖書の魅力もあるかと思います。

イエスさまは、はっきり仰いました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。ここには、健康な人、正しい人よりも、「病人」や「罪人」がイエスさまに覚えられているということになります。人間である以上、病気や死の現実から逃れられる人はいないのです。

ある時、イエス様の所に、「わたしの娘がたった今死にました」と父親が知らせてきます。これは大問題です。でも父親はイエスさまにお願いしています。「でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と。お願いした人は、「ある指導者」でした。

「指導者」とは、当時のユダヤ教の指導者のことで、その人が自分たちと敵対関係にったイエス様に助けを求めるということは、大変ゆゆしいことでした。しかし、娘を思う父親の一心は、すべての障害を越えて、今彼はイエスさまの前にひれ伏して嘆願しているのです。イエスさまの心が動かされないはずはありません。

私たちはこの父親のように、自分のすべてをかなぐり捨てて、すべてを越えてイエス様にすがれるかどうか。この事が問われているのです。

この後、死んだ娘はイエス様によって生き返らされるのです。その意味でこの出来事は、死を征服されたイエス様の復活を指し示すしるしとなっています。この父親も娘も死に勝利されたイエスさまの希望を私たちに指し示しています。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・黒木 安信)