バイブルメッセージ Bible Message

愛の言(ことば)、命の光キリスト

2021年 12月 1日

救い主降誕のいきさつは、マタイとルカ福音書には具体的にその出来事が記されていますが、ヨハネによる福音書では、「言が肉となって、私たちの間に宿った。」(1・14)に凝縮されています。

 

愛の言

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1・1)

この「初めに」とは「初めに神は天と地を創造された」(創世記1・1)の「初めに」と同じ意味で、天地万物が創造され存在する前、私たちが今刻んでいる時間が始まる前としての「初めに」言があったのです。

「言」とは知らされ、また伝達されるものです。その「言は神」とは、神は御自身を知らせ、現わされるお方だからです。「万物は言によって成った。」(1・3)それは、神がすべてをお造りになったとき、その創造の業を通して、御自身の思いを、御心を語っておられるということです。「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』すると光があった。」(1・2)。この「混沌」に向かって「神が言われる」と秩序が与えられ、創造の業が進みました。「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」(1・27)「神は愛」です。神が御自身のかたちに、愛の神のかたちに私たちを創造されたのです。

愛の神は、愛を込めて神の息、神の命を吹き入れ、人は、生きる者となりました。「愛の香を放ち、多くの愛の実を結ぶ者になれ」と創造されたのです。しかし、人は、悪魔の言葉に聞き従い、愛の言との関係が壊れました。それでも人を愛してやまない神、愛の言が肉となって=人となって私たちの間に宿られたのがクリスマスです。

 

命の光なるキリスト

人となって来てくださった愛の言キリストは、同時に命の光です。「言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。」(ヨハネ1・3―4)尽きることのない神の命、永遠の命です。ところが人は命の光を失ってしまい、闇が人間の世界、私たちの心を覆ったのです。しかし、「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1・5)この世界をどれほどの闇が覆っても、闇は光を呑み込むことはできない。「言が肉となって私たちの間に宿った」とは、神の愛の光が及ばないところ、届かないところは、この世界のどこにもないというメッセージです。

あなたがどれほど罪に汚れ、傷つき、痛んでいても、私はあなたを愛している。あなたをもう一度、新しく創造したい。そのために愛の言、命の光である神が人となって私たちの間に宿られたのです。

主イエス・キリストは、最初に身を横たえられたのは飼い葉桶でした。当時は石で造られていて、動物の餌を入れる不衛生なものです。愛を失い、命を失い、光を失い冷え切った人間の心をこの飼い葉桶は象徴しています。

愛の言はなく、冷たい言葉、汚い言葉を沢山聞き、自分でも発してしまい、傷つき、痛み、冷え切った心の人間に向かって、神はこう言われるのです。「愛の言、命の光である私を、あなたの心に迎え入れてほしい」。正に飼い葉桶に身を横たえてくださった幼子イエスは、神の愛のしるしであり、私たちの心に宿ってくださる愛の言、命の光キリストです。

闇をもたらし、永遠の死へと向かわせる人間の罪、汚れ、痛み、病のすべてを担われ、十字架にかかられ、ご自身の死と共に葬りさり、死者の中から復活され、朽ちない命、永遠の命を与える愛の言は、今も私たちを招いておられるのです。私たち一人一人が、まず心の闇を命の光によって照らしていただき、愛の言キリストによって癒していただきましょう。そして、傷ついた世界、闇の世界にあって、命の光、愛の言を分かち合う者とならせていただきましょう。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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