バイブルメッセージ Bible Message

互いに足を洗い合うほどの愛

2017年 3月 10日

(ヨハネ13章1―14節)

 

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。」(1~2)この上のなく愛し抜かれたとは、どれほどの愛でしょうか。

主イエスが弟子たちとこの地上で過ごされた当時、誰かが食事に招待されたなら、その家に到着すると、召使いがたらいに水を入れ、手ぬぐいを持ってきて、泥だらけの足を洗いました。足を洗うことは僕、奴隷の役目とされていました。

 

僕の姿を取られた主イエス

 

主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした場所は、借部屋でしたから、彼等の足を洗ってくれる人はいなかったのです。本来ならば弟子たちが率先して、まず主イエスの足を洗うべきだったでしょう。でも、この時弟子たちは何をしていたかというと、お互いの中で誰が一番偉いかと議論していたのです。そんな時、何と主イエスが膝をつき、手ぬぐいを取って、弟子たちの足を洗われたのです。

この時「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟」られたとヨハネは記しています(3)。主イエスが弟子の足を洗われたのは、初めからおられた父なる神の御許、天の住まい、神の宮殿、パラダイスに戻ろうという時でした。そしてそこは、主イエスの住まいであり、主イエス御自身のものなのです。神御自身である方が御自分の住まいに戻る直前、僕の姿を取って弟子たちの足を洗ったのです。主イエスは、粗末な服を着ておられたのですが、それさえも脱ぎ、膝をつき、たらいに水を汲み、弟子たちの足を洗われたのです。いと高き方が低くなられたのです。

 

神様の一方的な恵み

 

さて、主イエスは弟子たちの足を順番に洗われましたが、ペトロは「わたしの足など決して洗わないでください」とそれを拒んだのです。ペトロは、主イエスに足を洗っていただく資格などないと思い断ろうとしたのです。ところが、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8)と言われました。主イエスが足を洗われるというのは、神の恵みを示しています。神の恵みというのは、本来受ける資格のないものに一方的に無条件に与えられるから恵みなのです。ペトロがこの時取るべき態度はただ一つ、感謝して受け取ることでした。

わたしには、それを受ける資格はないと思うことがあります。でも、資格があるかないかではなく、神様は一方的にわたしたちを愛し、そして、わたしたちに仕えてくださる神なのです。それが主イエスです。

わたしたちの側に受け取る資格があって、与えられるものは、恵みとは言わないのです。何の資格もない、権利もない、功績もないのに与えられる。それが神の恵みなのです。わたしたちは、信じて受け取るだけなのです。受け取った者は、罪赦され、汚れが清められるのです。

 

高価な恵みへの応答として

 

けれども、この恵みは大きな愛の代価によるものです。高価な恵みです。主イエスの尊い命という代価によるものです。この恵みは、受け取った人が、主イエスのように生きる者と新しく造り変えられるために与えられているのです。ですから、主イエスはこう言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに愛し合わなければならない。」(14)わたしたちは、勿論、色々なことを話し合います。議論することもあります。けれども、主イエスのお心は、論じ合うよりも、互いに仕え合い、愛し合いなさい。そのために、まずイエスの愛を受け取りなさい。そして、受け取ったものは、その愛を与えるために、互いに足を洗い合いなさい。そのことによって互いに愛し合いなさいと命じておられるのです。

レントの日々、お互いの痛み、傷を共有しあって祈り合い、具体的にできることを実践しましょう。その時、わたしたちは、互いに足を洗い合うことができます。そして、そのように「互いに愛し合うならば、それによって(わたしたちが主イエスの)弟子であることを、(わたしたちの周りにいるすべての人びとが)知るようになる」のです。(13・35私訳)

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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