すべての民を弟子にしなさい(マタイ28・19抜粋)
2025年 1月 1日主イエスの大宣教命令「すべての民を弟子にしなさい」とは、「私(主イエス)の弟子」にしなさいということです。これが主イエスの大宣教命令の中心です。
この大宣教命令は、牧師、伝道師、宣教師などに限定されているのではなく、主イエスの弟子(キリスト者)すべてへの宣教命令です。主の弟子たちがしっかりと主に結びつき、同時に互いに結び付けられすべての民が弟子となるとき、主にある聖なる愛の交わりがいよいよ形造られ、拡大していくのです。
イエスの弟子は、イエスの似姿に変えられます。その姿を通して、私もイエスの弟子になりたいと導かれる人が起こされる、これが主イエスの大宣教命令の根幹なのです。
主の似姿に変えられていくために大切なことは何でしょう。それは主イエスとの交わりを常に持つことです。日々のディボーション、つまり日々の祈り、御言葉によって養われ成長していくことです。そして、主イエスがしてくださった救いの恵みをしっかりと証しし、人々をキリストの体なる教会に招き入れ、御言葉を用いて弟子となる家族、友人と分かち合う者であるならば、その人は主イエスの弟子と言えるでしょう。
私はまだ主イエスの弟子として十分ではないので、誰かを主の弟子にする働きができないと言う方がいますが、それは違います。
「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」(17)
弟子たちはひれ伏したのですから、イエスを救い主として信じ、礼拝したのです。しかし、疑う者もいたのです。信仰に生きているから、全く疑いがなくなるのではありません。
ジョン・ウェスレーは、自分の信仰に疑念が起こる中で、死刑囚に信仰について御言葉を語り、彼らは主を受け入れ喜びに包まれました。ウェスレーは、驚き、戸惑いながらも、やがて彼自身も主にある喜び、平安の内に、すべての民を弟子にしなさいという主の大宣教命令を担う者となりました。
「イエスは、近寄ってきて言われた。『私は天と地の一切の権能を授かっている。』」(18)
主イエスの弟子は、天と地の一切の権能を持っている主イエスという力強い後ろ盾があります。主が持っておられる権能、権威に守られ、支えられていることを忘れてはなりません。
先日、教誨師の研修会で『親分はイエス様』という映画のモデルになった鈴木牧師とお会いしました。かつてヤクザとして極道を極めた方でしたが、イエスを信じる信仰によって変えられ、イエス様の弟子となり、その後、献身し牧師となり、今は教誨師でもあります。暴力団を後ろ盾に生きる人生から、イエス様の権能、権威によって生きる人生に変えられたのです。かつての受刑囚が今は教誨師なのです。
私たちは、主イエスを信じる信仰を持ち、主の権能の後ろ盾がある者として、互いに交わりを持ちます。互いに証しし合い、御言葉を学び合う中、まだ不十分と思っても、未完成と思っていても、一緒に成長しながら、まだイエス様を知らない人に、イエス様のことを分かち合うのです。
「教える」とはただ知識を伝えることではありません。もちろん知識は必要です。知識そのものが人を主イエスの似姿に造り変えていくのではありません。
主はこの私のために十字架で犠牲となって死んでくださった。私は、御子イエスの命によって贖われた。それほど私は価値がある存在だ。私は主のもの、主の弟子だ。だから、主の愛に応答して生きたい、その愛について人々に教え分かち合うのです。
それでも大宣教命令に応えることができるでしょう。信仰によって、キリストの権能の後ろ盾があってもそれでも、大丈夫だろうかと思うでしょうか。イエス様は宣教命令の最後で、心配するなとおっしゃっています。
「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20)
マタイは、インマヌエルの主、「神は我々と共におられる」としてイエス様を紹介し、そのお方は、確かに「いつも共におられる」と締めくくっているのです。主は今、信じる者の内に、聖霊を通して共におられます。共にいるとは、一緒に歩み、一緒に御言葉を通して、祈りを通して交わり、支えてくださるということです。