どうして、裁いてはいけないのか
2025年 3月 1日「人を裁くな。裁かれないためである。」(マタイ7・1)
主イエスがこの世に来られた時、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人たちの多くは、神の「律法」、神の戒めに基づき、人々を裁き、人々に罪人の烙印を押しました。人々が愛の神に立ち返り、赦しと救いを得る道を指し示すのではなく、神の側に立っているつもりで、人を裁き続け、滅びの道に放置していたのです。
主イエスが、この世に来てくださったとき、ローマ帝国に加担した徴税人たち、罪人の烙印を押されていた人が大勢いました。確かに、彼らは神の戒めを守ろうとせず、特に徴税人たちは私服を肥やしていたのですから、罪の深みにどっぷりつかっていた人たちでした。
イエスが徴税人の頭であったザーカイに、木の上からイエスを眺めていた彼に、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」と言われ、彼の家に泊まられたとき、ユダヤ人、特にファリサイ派の人たちは、「あの人は、罪深い人のところに行って、宿を取った」とつぶやき、イエスを裁いたのです。
主イエスは罪人のレッテルを張られている人のところにいき、人を裁くためではなく、罪の中にいた人を探し出し、その人を真の悔い改めへと導き、赦し、救うために来られたのです。その主は、人を裁き続ける人は、裁かれると言われました。どういうことでしょう。
ある時、イエスの所に、姦淫の現場を捕らえられた女性がファリサイ派の人々に連れて来られました。そして、イエスを陥れようとし、「この女性は、モーセの律法によれば、石で撃ち殺されことになるが、あなたはどうするか」といどみます。イエスは、最終的に「あなたがたの中で、罪を犯したことのないものが、この女性に石を投げなさい」と答えられ、長老から順番に、握っていた石をおいて、人々はそこを離れたのです。彼らは、この女性を裁きました。でも、自分も罪人、裁かれる存在であることを悟り、その場を立ち去りました。そして、イエスは、「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはいけない」と彼女に言われ、赦しを宣言されました。
さて主イエスに救われた者は、主の愛と赦しの恵みの中にありますが、私たちの心には、誰かを裁く心が残っていないでしょうか。
「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。」(7・3~4)おが屑は、最も小さなもの、梁は最も大きなもの、つまり、私たちが他人の小さな欠点、過ちには過敏に気づき、それを指摘し裁くのに、自分のことになると、大きな丸太、梁のようなものでも気づかないと主イエスは言われたのです。
主イエスは、十字架という大きな梁、丸太を背負って、ゴルゴダの丘へて進まれました。私たちの目の中の梁、丸太、裁きの心、罪を背負ってくださったのです。主は、そのような罪人の身代わりとして罪の裁きを十字架で受けてくださり、その御愛を示してくださったのです。神の裁きは、愛と赦しと和解を与えるのです。もう一度、主の十字架を仰ぎ、裁く者ではなく、赦された者として、その恵みに生きる者となりましょう。



