聖霊の力を受けるのを待ち望む
2025年 6月 1日「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」(使徒言行録1・8)
私たちが待ち望むべき聖霊の力、それは神の愛の力です。そして神の愛の力は、その人を満たすだけでなく、その人の内から溢れ出る力です。
主イエスは、前もってそのことをこう語っておられました。
「祭りの終わりの大事な日に、イエスは立ったまま、大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、ご自分を信じた人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ与えられていなかったからである。」(ヨハネ7・37~39)
主イエスが与えてくださる生ける水とは、聖霊のことです。その生ける水が人の内から流れ出るようになる。流れ出るとは、溢れ出るということです。つまり聖霊によって、愛に満たされた者の内から愛が溢れ出るようになるとイエスは言われたのです。
主が、「渇いている人は誰でも私のもとに来なさい」と人々を招かれたのは、仮庵の祭りの終わりの日でした。イエスが大声で叫んでも、聞こえないぐらい、人々は歓声を上げていたのです。彼らは、心の渇きに気づかず、ただ祭りを楽しみ、一時的な高揚の中で満たされた気分になっているだけでした。
彼らが夢中になっていた祭りの儀式は、シロアムの池で器に水を満たし、主の祭壇に持ってきて、祭壇を回って、水を注ぐということでした。
かつてイスラエルの民は、エジプトから解放され荒れ野に出たとき、「水がない」とモーセと神につぶやいたのです。すると、神は、モーセに杖で岩を叩けと命じられ、その通りにすると、その岩から水が川のように流れ出したのです。そして、人々の渇いた喉を潤しました。
また、神の預言者エゼキエルは、主の神殿から水が川のように流れ出る幻を見ました。仮庵の祭りは、出エジプト後の荒れ野でのイスラエルに水を与え、守り導いたこと、そして、やがて主の神殿から生ける水、聖霊があふれ出る時が来る将来を指し示し、このことが主イエスによって成し遂げられたのです。
荒れ野で叩かれた岩とは、霊的な岩で、「この岩こそキリストだったのです」(コリント一10・4)とパウロは述べています。
イエスは、鞭打たれ、叩かれ、十字架に貼り付けにされ死なれましたが、死者の中から復活され、イエスを信じる者に約束の聖霊を与えてくださり、その一人一人が、聖霊の宮、神の神殿となり、生ける水、聖霊が川となり流れ出るようになる。主イエスは、その時を待ちなさいと言われたのです。
しかし私たちは、イエスを信じて、聖霊を受けているはずなのに、愛が自分の内から溢れ出ているとは思えない。愛が足りないと思うことがあるのではないでしょうか。
何が問題なのでしょうか。何が聖霊の満ち溢れる器となることを妨げているのでしょうか。
イエスを信じていても、依然として自分の力を信じ、自分自身をイエス様に明け渡しきっていないからなのです。
聖霊の力は教育の力とは違います。主は、無学な漁師と言われたペトロたちを聖霊で満たして用いました。また、パウロのように高いレベルの教育を受けた者も用いましたが、それぞれの心が砕かれ、へりくだったとき、その人の心に主の愛が満ち溢れ、聖霊の宮となりました。
歴史の中で、世界の国の指導者たちは、政治の力、軍事力、経済力で世界を支配しようとしてきました。今もそうです。しかし、そのような力は、一時的なもので、永遠に続くことではありません。いつかは滅びるのです。
聖霊の力は、教育の力でも、政治的な力でも、軍事力でもありません。それは神の愛の力です。自分の握っているもの、こだわっているものを手放し、心を明け渡していくならば、聖霊が私たちの心を支配してくださるのです。愛による支配です。その時、まさに神の国は、私たちの内にあり、その愛が私たちの内から溢れ出て、心が渇いていることに気づいていない誰かと聖霊による愛を分かち合うことが
できるのです。