バイブルメッセージ Bible Message

途方に暮れても失望しない信仰

2025年 7月 1日

「賛歌。アサフの詩。神はなんと恵み深いことか イスラエルに、心の清い者たちに。」(詩編73・1)
アサフは、レビの子孫で、詠唱者に任ぜられた人の一人です。彼らは青銅のシンバルを鳴らして、主への賛美を導いた人たち、賛美バンドです。
そういう人だから、当然のように「神はなんと恵み深いことか イスラエルに、心の清い者たちに。」と感謝を歌っているのではありません。アサフは信仰者として、危ういところを通り、神を疑い、悩み苦しみ、人を妬み、そんな自分に失望し、途方に暮れる体験をしたのです。
NHKの連続テレビ小説『あんぱん』で、「絶望の隣は希望だ」というフレーズを良く聞きますが、アサフは絶望的な状況の中で、主の臨在、全能の神が自分と共におられるという希望を見い出し、信仰による勝利を得たのです。だから「神はなんと恵み深いことか イスラエルに、心の清い者たちに。」と告白しているのです。
それでは、アサフを信仰の危機、信仰の危うさに陥らせた絶望、失望、途方に暮れる経験とは何だったのでしょうか。
「それなのに私は、危うく足を滑らせ 今にも歩みを踏み誤るところだった。悪しき者の安泰を見て 驕り高ぶる者を妬んだ。」(73・2~3)
アサフは、こう思ったのです。全能の神は聖なる愛の神であるなら、どうしてこの世はこんなに不公平なのか。真面目で善良な人が虐げられ、神を全く畏れない者が驕り高ぶり、富を得、栄えている。一体どういうことだ。と、この矛盾にアサフは悩んだのです。
「悪しき者の安泰を見て 驕り高ぶる者を妬んだ。」とあります。この妬みは、悪しき者の繁栄と自分の現状を比べることから起こったのです。
さらにアサフを苦しめたのは、神様を全く畏れない、驕り高ぶる者たちが、こう言ったからでした。
「彼らは言う。『神がどうして知っていようか。いと高き方に何の知識があろうか。』」(11)
驕り高ぶる者たちが、神は無知だと侮辱したのです。そんな彼らが富み栄えているのです。
アサフには彼らがこう言っているように聞こえるのです。「俺たちは、栄え続けている。それに比べてお前はどうだ。真面目に、神を信じ、正しく生きようとして、何か良いことがあるのか。」そう言われ、アサフの心が揺さぶられ、途方に暮れてしまったのです。
私たちは、どうすれば、妬む思いから解放され、主なる神にのみ希望を抱く信仰に生きることができるのでしょうか。それは、永遠の神の側から物事を見ることです。
アサフが、驕り高ぶる者を妬む思いを断ち切り、信仰の勝利を得たのは、私たちの思いをはるかに超えている永遠の神の思い、神様の道、永遠の御言葉に心を向けていったからです。絶望の隣は希望。隣に主がおられることに気づき、神の思い、神様の言葉こそが、必ず成し遂げられるという信仰を回復したからです。
使徒パウロは「私たちが土の器」(Ⅱコリント4・7)であることを述べています。傲慢な生活をしている人が栄えているのを見て妬んでしまう脆い土の器なのです。しかし、ただの土の器ではないのです。「なぜなら、『闇から光が照り出でよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らし、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を悟る光を与えてくださったからです。私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。」(4・6~7)
私たちは、ただものではありません。神の目に貴く重んじられる器です。土の器に、聖霊を通して、神の栄光を悟る光を宝として納めているのです。だから「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」(8~9)と述べているのです。
「途方に暮れても失望せず」とありますが、パウロも初めからそうだったわけではありません。しかし、キリストの光に照らされ、主の臨在があり、そのはかりしれない力を内に宝として納めていることが分かったから「途方に暮れても失望せず」と確信を持って言えたのです。アサフもパウロも、途方に暮れても失望しない信仰によって歩んだように私たちも歩ませていただきましょう。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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