逆転しない正義とは(ハバクク書1・1~11)
2025年 8月 1日「正しいことが正しく扱われていない」と思うことがあります。
戦争、暴力、まさに暴虐、不正が蔓延って、誠実に生きようとしている人が報われない世界があるように思うことがあります。
個々の歩みの中でも、そのような現実に直面し、心がかき乱されるのです。
しかし、「それでも」と神を信頼して生きる者に与えられる主にある喜び、力をハバククは証ししています。
ハバクク書を簡潔にまとめるならば、「なぜ」「いつまで」と神に問いかけながら、「しかし」(それでも)と、神を信頼して、神の正義を悟り、喜び、踊る「信仰」に生きる者の内に湧き上がる神の力です。
さてハバククの時代、南ユダは、神に背き、堕落し、偶像崇拝をはじめ、忌まわしい罪を犯し続けていました。そのような中で、ハバククは、神に叫び祈るのです。
神をなお信頼して、叫び、祈る ハバククの信仰
「主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。あなたは耳を傾けてくださらない。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに あなたは救ってくださらない」(1・2)
神の前に正しく生きる者が、神に逆らう者に苦しめられ続けているのに、あなたは、私を救ってくださらないのかと、叫ぶのです。
NHKで毎朝放送されている『あんパン』で良く耳にした言葉に「逆転しない正義はあるのか」があります。
例えば、私たちが良く知る三浦綾子さんは、戦時中、「日本は正しい戦争をしている」と信じ、子どもたちを教育しました。しかし、戦争が終わり、当時の日本の正義は、偽りだったことが分かり、どうしようもない虚しさ、そして絶望感を抱くのです。正義と思っていたものが崩れ去ったからです。そのような絶望の中で、逆転しない、決して崩れ去ることのない正義、主イエス・キリストの神に出会われたのです。
しかし、ハバククの場合は、もっと事態は深刻なのです。なぜなら、神は正しい方で、悪を憎まれ、正義を貫かれる方なのに、そう思えない現実の中で、逆転しないはずの神の正義が、一体どこにいってしまったのかとハバククは苦悩するのです。
「なぜ、あなたは災いを私に見せ労苦を眺めたままなのですか。私の前には破壊と暴虐があり 争いといさかいが起こっています。
こうして、律法は力を失い 正しい裁きがいつまでも下されません。悪しき者が正しき者を取り囲み そのため、裁きが曲げられています。」(3~4)
「律法は力を失い」とありますが、神の言葉には権威があり、人を変える力があるのに、人々は、その神の言葉に立ち返り、神の言葉に従って生きようとしない。
正しいことを述べている神の預言者たちが嘲られ、悪しき者たちに囲まれる。その裁きが曲げられているのです。正しい神、義なる方なのに、正義が逆転しているように思えてならなかったのです。
それでもハバククは、神を信頼しているからこそ、人に頼ることなく、神に叫び、祈っているのです。
私たちも、ハバククのように、不満、納得できないことに、人ではなく、神を信頼し、神に叫び祈る信仰に生きる者でありたいと思います。
納得のいく答えを神からもらえない中でも、なおハバククの信仰
神は遂に、このハバククの祈り、訴えの叫びに対して答えられます。「……あなたがたは、そう告げられても信じないだろう。私はカルデア人を興す。彼らは残忍で残虐な国民。」(5~6a)
ハバククは、南ユダの民の堕落を悲しみ、神が民を懲らしめ、悔い改めへと導き、民の中に大リバイバルが起こり、神に立ち返るその時が来ることを願っていました。
ところが、神は、カルデア人、バビロニアを通して、南ユダを裁くというのです。南ユダよりも、はるかに邪悪なカルデア人を用いて神が南ユダを裁かれることは、ハバククにとって、受け入れがたいことでした。神の答えは、時として信じがたいことがあります。
しかしハバククは、それでも主を信頼して、主の正義は逆転しないことを最終的には悟るのです